親父の肖像3

■親父の肖像3

1)昭和18年(1943)頃航空立川教育隊区隊長(教官)とアルバムには書いてある。陸軍士官学校を卒業した父は21歳。後列右から2番目。AIによる着色済、陸軍の制服は実際はカーキ色のはず。

2)青森の八戸を経て昭和18年(1943)頃台湾佳冬にて。
現在の中華民国、台湾戦地にてとあるが何かの記念で写されたはず。恐らく最前線に出る直前2度と戻れない旅の直前の写真であろうと推測。
しかし結局父は最前線に送られることは無かった。
海軍大佐の祖父が手配して止めたのだ。強制的に日本に戻した。
これについては何度も言っていた。戦友が戦地に赴く時に自分だけ残され一人見送った、無念だと、何度も。

3)昭和19年(1944)水戸の航空通信学校時代の親父。22歳
父は台湾から強制的に日本に戻され、最も安全な通信部隊に編入されたと聞く。
どこか落ち着いた表情。水戸では偕楽園で遊び、ボートを漕いだ。民家に下宿していた。
水戸市元山町5763古田房太郎とある。

その後、浜松に移る、昭和19年末。
そして翌年日本の敗戦。昭和20年(1945年)8月

4)飛行機に乗った父の写真だが実際には操縦できなかった。飛行機を操縦するだけの運動適性が無いのだ。この辺は私と同じ。反射神経が無いバランスとスピードの適正もない。親父もそうだったのだろう。
生前どうして飛行機乗りにならなかったのか聞いた、親父は珍しく恥ずかしそうに語った。戦友に頼んで乗せてもらったが操縦できずそのまま納屋にぶつけて壊してしまったと。

そういえば軍歴では一度飛行教育学校に送り返されていた。

5)水戸から東京に戻った父は友人の勧めもあって大学に進むことにした。
短い期間で猛勉強したらしい。ここでも祖父に猛反対される。大学に行かずパン屋を手伝えと。
お前は士官学校を卒業しているのだから大学に行く必要はない、と。行くなら勘当だ、くらい言われたのだろう。
親父は早稲田の電気学科を第一志望としたが第2志望の採鉱冶金学科に入学。
第一志望の事は親父は死ぬまで語らなかったのであくまで推測。
いつも電気、電気と言い自分はエンジニアだと言っていた。

親父は無くなる1か月前の病床で変わり果てた姿になりながら、うわ言の様にしゃべり続けた。
丁度見舞いに来た私にその時だけは意識が戻り、祖父の事、自分の半生を一気に語った。
一人だけ日本に帰された時は祖父を憎んだけれど、結局今では感謝してる。命を救ってくれたと。
そして自分の生まれたときから戦争から戻るまでを延々と語り、波乱万丈の人生だったと語った。
実の母を6歳で亡くし後妻とはうまくいかず、後妻の子供を祖父はかわいがった。
その子は利発で優秀な子供だったようだ。なぜか英語が堪能でアメリカにわたって事業を起こしている。

祖父とはうまくいかないことが続き、海軍と陸軍でも仲違いし、大学進学も反対され授業料を出してもらえず。
家を出て近所の浄行寺に下宿し、そこからアルバイトで大学に通ったと言っていた。

そして親父の物語はそこで突然終わってしまっていた。

世田谷区東玉川の浄行寺玄関前で

これから先人生で最も大切な時期を、家族を持ち守り抜かなければならない大事な時期がある事を親父は認識していなかった。
親父の人生は止まっていた。あの日、あの時に。
憎しみだけ詰め込んだ古い掛け時計、それが親父の姿だった。

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