4年前のあの時に
先日最初に勤めたT設計事務所のH先輩の安否が急に気になり
息子さんのHPを探し出して連絡をとった。
結果、4年前の9月25日にご本人の葬式が営まれていた。
それも残された4人の子供たちだけで。
親しい人を探し出して連絡を取るどころでは無かったのだろう。
唖然、体の力が抜けていくよ。
私には恩人であり、社会に出たばかりのひよっこの私を暖かく包み、
会社帰りには毎日のように一緒に遊び飲んでくれた。
当時は毎日が楽しくてしょうがなかった。
駅に向かう自分の足が弾んでいるのが自分でも分かった。
当時4年も留年してやっとプータローから脱却した私は
強い社会全体に対する漠然とした不安と恐れに満ちていた。
ところが入った会社では家族のように暖かく、兄弟よりも親しくしてもらった。
特に先輩のHさんには。
あまりの居心地のよさについ7年間もお世話になり、バブルの高波に押されてようやく巣立った。
その後、バブル崩壊と共にT設計事務所を支えていた経済構造も崩れていく。
創業者の社長が亡くなり、
後に羊のように人の良いHさんが社長に就任したが、数年で会社は解散した。
独りで道を切り開くタイプではないのでその後大丈夫かなと思っていたが、忙しさにかまけて連絡がおろそかになっていた。
そして7~8年のときが経ち、息子さんから哀しい知らせを聞いた。まだ57歳だった。
2007年9月25日、H先輩のお葬式の日に
偶然私は7年間開いていた芦別のHPを閉じていた。
さよなら故郷芦別のみんな。ひどく哀しい気分に押されて
もう出来ない、もう続けられないと当時感じていた。
あのときの気分が甦るよ。
Hさん、ごめんね。連絡も取らずに。
きっと一人で飲んだくれ、緩慢に死を願っていたのかもしれませんね。
私はいつでも嵐の中だったけれど、生きる力でいつも溢れていたよ。
少しは分けて上げられたのに。
さよなら、さよなら、もう一度さようなら。
哀しくてやりきれないよ。