失った者たち
年をとるほどに失うものは増えてゆく。
たくさんの人がそのことについて語り十分に覚悟していたつもりだった。
少しずつ少しずつ失われていくと思っていた。
ゆっくりと晴れから雨に雨から雪に変わるようなものだと思っていた。
でも実際は違った。
日々歩いていると突然扉が閉まるのを感じる。
大きな音を立てて今までできていたことができなくなる。
骨を一本失うほどの衝撃が走る。それが何度も何度も続いてくる。
若かった頃は毎日が新しく、新しい扉が次々と開き、地平線の向こうに光が満ち、広大な風景が開けていくのを感じた。
今はちょうどその逆の道をたどっている。
後ろから次々と扉が閉ざされ、手足を失うほどの痛みと共に。
それでも前に進まなければならない。歩くのを止めることはできない。たくさんの扉が閉まっても前に進む。
一本の道だけは残されている。それが生きるということ。
生きるべきまっすぐな道それがどこまでも続いている。
一切の飾りを捨てむき出しの自分一人になり、そうやって生き続けてゆく。
今までで一番ショックだったのはイメージが見えなくなったこと。
これだけは時間をかけて少しずつ少しずつ失われていった。
以前は明るくギラギラした色彩に満ちていたリアル感たっぷりの五感に強く訴えるイメージが降りてきた。
それがだんだん色彩が失われ情感が失われ、やがて白黒のテレビの中の映像のように見えるようになった。
それすらも砂嵐になり、うすい緩やかな風のようになり、そして目の前に現れなくなった。
丁度、五感の一つ、例えば耳が聞こえなくなった様なもの。
何度も取り返そうとしたけど、いくら訓練を繰り返しても完全に見えなくなった。
私を支えてきた特別な感性が失われた。それがあるゆえに創造的な活動ができた。
目の前に見えるイメージを書き写すだけで様々な表現ができた。それを見ながらデザインし、言葉に直し、進むべき予言をした。この世の存在以外の者たちと話をした。
時には人を驚かし、時には自分自身が怯え、そして導かれるままに進むべき未来を常に感じていた。
だが私は感性の衰えたただの男になった。
タダノ人間になった。
それでもそれでも何か生きている意味があるはず。
探す前に歩きだそう。
全てが終わる時に分かるかもしれない。何のためにここまで来たのかを。
画像は今年の両大師御車返しの桜、少し散っている。
桜は毎年美しい花を咲かせる。
人にはそれができない。それ故にそれ故に愛おしい。